人生日誌inポンペイ(現在)

開発業界で専門家を目指します。

ナンヨウツバメウオを食べてみた(ダイビング、ダイバー、魚、料理、刺身)

 

 

ナンヨウツバメウオとは

スズキ目・マンジュウダイ科・ツバメウオ属の魚。

日本でもいるらしく、インド洋や西太平洋に生息している。

一目で、南国っぽい魚。

すごく平べったくて、顔と身体の境界線はどこなんだろうという感じ。

ペアで泳いでいることもあり、かわいいのでダイバーにも人気なのではないだろうか。

 

泳いでるところは可愛い

 

こんな感じで泳いでる。

f:id:ryotaokiguchi:20200121084531j:plain

正直最初は不気味だなって思ってあんまり好きじゃなかった。

けど、だんだん愛おしく見えるようになってきた。

 

さばいてみる

普通の魚と同じようにさばいてみることにする。

f:id:ryotaokiguchi:20200121085203j:plain

 

歯。

f:id:ryotaokiguchi:20200121085328j:plain

 

まずは、鱗を取る。

鱗は結構小さい。内臓も取る。

f:id:ryotaokiguchi:20200121085619j:plain

 

頭を落とすけど、頭ってこの辺?胸ビレの後ろから落とすから、まぁここだろう。

f:id:ryotaokiguchi:20200121085323j:plain



こんなに体が薄い。包丁の入れ方をうまくやらないと、身が無くなりそう。

f:id:ryotaokiguchi:20200121085542j:plain

 

三枚になった。

f:id:ryotaokiguchi:20200121085751j:plain

 

身はこんな感じで、縁側の部分が多い。

f:id:ryotaokiguchi:20200121085659j:plain 

 

食べてみる

生の味を確かめるために刺身にしてみる。

しかし、皮が全く剥がれない。カワハギみたいな形してるのに全然違う。

だからもう諦めて、お湯をかけて、さっと湯引きにして、皮のコリコリも楽しむことにした。

f:id:ryotaokiguchi:20200121085753j:plain

味は、淡白。不味くもうまくもないというのが正直なところです。

 

焼き魚にもトライ。頭に身が入っていたので、頭も焼いた。

パサパサした。うーん。もういいかなって感じ。旨味はあまりない。

f:id:ryotaokiguchi:20200121085703j:plain

 

 ベテランダイバーでも食べたことのない、もしくは食べようとも思わないであろう魚をこれからも食べます。海の中で、魚の姿と味が一致するのが目標です。

 

 

 

 

 

青年海外協力隊の目的とは何か。(書類審査、ボランティアの意義、稲盛和夫)

青年海外協力隊を派遣する目的

JICAボランティア事業の目的は、以下の3つと定められている。

(1)開発途上国の経済・社会の発展、復興への寄与
(2)異文化社会における相互理解の深化と共生
(3)ボランティア経験の社会還元

『JICA海外協力隊 応募webサイト 事業概要』より

 

派遣前の訓練において、何度も耳にする。

とりわけ、現在派遣中の隊員であれば、 (1)の「開発途上国の経済・社会の発展、復興への寄与」という目的に近づきたいが、実際にはそう簡単に辿り着かず、四苦八苦することだろう。

 

そもそも”ボランティア”とは何か

そもそも、ボランティアの定義とはなんだろうか。

実は、このような質問が書類審査の質問で問われた。

(今の審査書類にもあるかどうかはわからない)

 

質問

ご自身が考えるボランティア活動の意義、目的を記述してください。

『ボランティア活動の目的とは、自分の技能や知識を困っている人のために役立てることにあります。私にとっては、地位や報酬よりも人助けに注力することが仕事のやりがいとなります。人のために役立ちたいという気持ちが、よりよい活動を行うための原動力になります。

その意義は、同じ志を持つ仲間を見つけ、お互いを高め合うことにあります。個人の活動範囲には限界が生じるため、同志を集め、同じ方向に向かって活動を進めていく必要があります。多種多様な仲間と意見を交わしながら切磋琢磨し合い、お互いを鼓舞し合える関係を築くことができると考えます。』

 

正直今は、地位や報酬も欲しいという思考に戻ってきたけど、当時記載したのは以上の通り。

他の箇所は今もその通りだと思っている。

 

ボランティアの目的とは、自分の持っているものを相手にgiveするというところにあると思っている。

なんで、社会の中でボランティア活動に注力しないかといけないという意義は、多種多様な人たちと切磋琢磨することだと思っている。社会に貢献したいと思っても、それは1人だけの力ではななかなか成し遂げなれないので、協力者がいる。そういった協力者と話して協力していくことによって、学びが高まる。

 

これは、何も無償のボランティア活動のみならず、職場や仕事場の中でも生きてくるはずだと思っている。

 

営業職に従事していたころは「サービス精神」という言葉に置き換えられていた気がする。

安売りではなく、自分のできることを相手に精一杯見せて伝え、信頼を得るということだ。

 

”利他”の心

あまり仏教には詳しくないけれども、とても好きな言葉が「利他の精神」だ。

相手のことを気にかけて、敬うこと、相手に施しを与えること。それは時にして自己犠牲を伴っても相手を優先すること。

 

そういった考えを経営にも取り入れているのが、稲盛和夫氏。

書籍では稲盛氏の考えがよく理解できる。

『生き方』はもう何度も読んだ。

 

生き方

生き方

 

 

『生き方』の中では、勤勉に働くことこそ、人間が人間らしく幸せでいられるとある。楽しさを得るだけの趣味や娯楽はそれだけで終わってしまう。勤勉に、昨日の自分よりもましな自分を目指して働くからこそ、人生は楽しいと。

また、良い方向に進むと常に信じて努力を進むことで、本当に流れが変わってくるとある。逆も然りで、努力をやめたり、このままでもいいやと思えば、それが現実になる。

 

バカにする人もいるかもしれないが、本当ではないかと思う。

 

 

結果は何も求められない

 

協力隊事業では、隊員に対して報告書の提出は求めるものの、それは正直感想文程度。

結果をしっかり記しているものが全てではない。

活動終了時や終了後に報告会もあるが、最低限動いた形成が見えれば、「よく異国の地で頑張りましたね」という雰囲気で、活動の中身について深く言われることもない。それで「2年間、現地のために貢献しました」と帰ってしまう。

異文化で色々と悩みの尽きない生活であるし、悩みはその人の置かれた環境でしかわからないから、安全に健康で帰ることができるのが確かに第一だ。

 

とにかく、2年間は長い。今半年を切ったところだが、まだ時間があるのかとびっくりすることもある。

隊員の目的である以下の3つは忘れてしまいがちになるなと思うこともある。

(1)開発途上国の経済・社会の発展、復興への寄与
(2)異文化社会における相互理解の深化と共生
(3)ボランティア経験の社会還元

 

「せっかく2年間海外にいられる」

「お金が貯まる」「なかなかいけないところに行ったりして遊べる」

そういった自分を優先してしまう気持ちが強くなる。

それは人間としては当然のことで、人間の思考は自分に甘いようになっているんだろう。

 

けれども、活動がうまくいこうがうまくいかぬが、ボランティアの目的と意義は忘れずにいたい。

”利他の心”を持って自分のできることをgiveにしに来た。それが自分にとっての本質である。

 

ミクロネシア地域の国の成り立ちと日系人たち。(ミクロネシア、チューク、トラック)

 

 

ミクロネシア連邦日系人

ミクロネシア地域は、グアムやサイパンを含む北マリアナ諸島パラオ共和国ミクロネシア連邦マーシャル諸島共和国のことを指す。

歴史的は日本が統治しており、今も全地域で2割以上が日系人だという。

けれどもそんなことは、任地のポンペイにきてから初めて知った。これらの国々では日系の大統領も誕生してきた。歴史を知らないことが恥ずかしい。

 

歴史を見ていくと、大航海時代に西欧人たちが島々にやってきて、スペインやドイツに支配され、第一次世界大戦が始まると日本が国連の信託統治という形で、これらの島々を統治した。

その時代がきっかけで、当該地域に日本の文化や血筋が広がった。

任地のポンペイでも、南洋庁支部が置かれ、1万人弱の日本人がいた。当時は旅館や料亭、歯医者、お菓子屋さん、色々とあったらしい。今でも建物の一部が使われていたり、多くの日本語が残っている。戦車や銃、防空壕などもジャングルの中で眠っている。

その中で、チューク州(統治中はトラックと呼んでいた)の2人に焦点をあてた書籍を読むことができた。

特に印象的であった内容や感じたことを記録しておきたい。

 

南の島の日本人―もうひとつの戦後史

南の島の日本人―もうひとつの戦後史

 

 

 

アイザワススム

彼は、なんと日本のプロ野球でピッチャーとして活躍した経験を持つ。

南洋貿易会社に勤める日本人の父と、トラック諸島の水曜島の伝統的酋長の娘との間に次男として生まれた。

小さい頃から体が頑丈でスポーツ万能だったらしい。

当時の中等学校へ進学するには、日本へいかなければならず、尋常小学校を卒業した後に、父の故郷である神奈川県藤沢で学校に通ったそうだ。その後、日本で就職をし、草野球を始めた。才能を開花させ、チームは全国軟式大会で準優勝したそうだ。

プロ野球界の目に留まったススムは、昭和25年に毎日オリオンズに入団する。チーム名が変わったり移籍もしたようだが、1軍での登板もあったようだ。32年に引退している。

その後、トラックの水曜島へ帰ろうとする。敗戦による強制引き上げで父は日本に帰国したが、母や姉はトラックに残ったままだった。しかし、当時の日本は渡航自由化されておらず、アメリカの信託統治下にあったミクロネシア地域に帰るということはハードルが高かったようだ。それでも、トラック人の母との親子関係を証明する書類や、無犯罪証明書などを用意し、アメリカ大使館や外務省の許可を得て、ようやく戻ったようだ。

今から70年前、敗戦後の渡航手続きというのは想像がつかない。ミクロネシアは当時国ではない。日本人としてはアメリカ信託領に入れないし、チューク人と血縁関係にあるという証明も大変だったんだろう。

 

チューク州(トラック)では伝統的に母系社会によって、伝統的酋長が継承されていく。酋長の娘を母にもつススムは、日本国籍を破棄してアメリカの信託統治領民としての市民権を得て、水曜島酋長となる。

市民権を得てからは、ビジネス活動にも活発であり、商店経営や漁業関連、ヤマハ発動機代理店経営で活躍したそうだ。

ビジネス活動と、人々の暮らしの相談事に乗ったり困った人を助ける伝統的酋長の役割をこなしていく。

 

*南洋貿易株式会社とは

明治維新の際に南洋進出を果たし。コプラ(乾燥ココナッツの身)などの輸出入などを行なっていた会社。現在も島嶼国の輸出入において定期便をもち、重要な役割を果たしている。

*水曜島とは

トラック環礁(現チューク環礁)の中の島のひとつ。トル島と呼ばれる。日本統治時代には、夏島、春島、などと日本名で島に名前をつけていた。

*酋長とは

太平洋諸島地域のミクロネシアポリネシアによく見られる伝統性に基づいた世襲的な地域社会の長を指すらしい。小さな島社会の中で、収穫物を公平に分配したり、揉め事を解決する社会の指導者とされている。

 

ナカヤマトシオ

ミクロネシア連邦の初代大統領。

ただし、正式な国家としての大統領とは言えない。

ミクロネシア地域は日本の敗戦後、当然アメリカの政治の仕組みが入って来る。上院と下院の二院制となっており、トシオは1979年に上院議長として、信託統治下にある自治区の大統領となり、憲法制定に携わる。4つの州(ポンペイ、チューク、ヤップ、コスラエ )をまとめた自治区である。しかしながら、国として認められるにはアメリカが信託統治権を返上し、独立を宣言、国連から認められれなくてはならない。

結局、国連安保理ミクロネシア連邦信託統治終了が認められたのは1990年12月である。憲法では4年の任期を2期勤めることが最長とされており、トシオは、独立に際して初代大統領であるが、国際社会から見ると初代大統領ではない。

 

そんなトシオは南洋貿易社員の父と、トラック環礁外の離島環礁の酋長家系の娘である母の下に三男として生まれた。

終戦後、父の正実は島で暮らすつもりでアメリカ軍に在留許可を申請したが、叶わずに、強制引き揚げとなった。トシオは母や兄弟たちとトラックに残った。父を探しに日本に行きたいという想いを持っていたそうだ。しかし、この時住んでいた母親の故郷である離島のウルル島には学校がない。学校にいって勉強ができれば日本にいけるかもしれないと考えていたトシオは、春島でアメリカによる学校教育が始まると聞いて、豚を1匹抱えて春島の親戚を訪ね、学校に通い始める。登録制の学校であり、トシオは無登録であったが教室の外から授業を聞くことを許可された。ここからトシオは猛勉強、アメリカ人教師は教室内に席を持たせ、補助教員の役割を行うようになった。教員を経て、政府職員として引き抜かれた。

アメリカ政府が用意したハワイ大学への奨学金にも合格し、大学でも学んだ。自国の国家の建設を意識し、政治家になろうと信念を確固たるものにしたそうだ。トシオのパスポートには「信託統治領(Trust Territory of the Pacific Islands)」とあり、国家に属していない。国家としてミクロネシアは独立しなければならないと感じたのだろう。

信託統治行政の下、チュークにも地区議会が設置され、選挙によって議員が選出されることになった。27歳で初当選、議員となる。

アメリカはミクロネシア地域を、マリアナ、ヤップ、パラオ、トラック、ポナペ、マーシャルの6地区に分けて統治していた。1965年にこの地域を統括する全領域の代表の上院・下院からなる二院制の議会を設置し、トシオは上院議員として当選し、上院議長となった。そうして、国家としてのミクロネシア独立のために奮闘していく。

 

来日も果たし、父親を探すことにも成功した。父親は歓迎してくれたものの、実は父親は日本で再婚し、トシオと交わしたトラックに戻るという約束は消えかけていた。しかし、日本で再婚した妻が病死した後、トシオや子供達のもとへ戻り、トラックで孫たちに囲まれながら余生を過ごした。

トシオの父正実は結局トラックに戻ったわけだが、戦後の引き揚げによって引き離されたままになった家族は相当数がいただろう。子供が父親を日本に探しにいっても見つからない場合が多いだろうし、すでに再婚してしまい、子供に合わせる顔がないというケースも多かったようだ。 

 

国づくりの過程

ミクロネシア自治政府上院議長、実質の大統領となったナカヤマトシオは6地域に分けられた、全地域の連邦国家としての独立を考えていたようだ。

現在は、ポナペ(現ポンペイ)、トラック(現チューク)、ヤップ、コスラエ の4州からなるミクロネシア連邦だが、トシオは、マリアナ地域、マーシャルやパラオ全てをまとめて独立連邦国家としての考えを持っていた。

マリアナ地域はグアムやサイパンを含め、アメリカ領に、マーシャルとパラオはそれぞれ独立した。

トシオの構想では、どういった国家を理想としていたのだろうか。広い海域をもつ島々をつないだ連邦国家の建国理念はどういったものがあったのであろうか。

個人的には、この構想の狙いがとても気になる。マーシャルやパラオにはどんな思惑があったのか。マリアナ地域にはどんな考え方があったのだろうか。

 

ミクロネシア連邦として独立する際の問題が、アメリカとの交渉だ。

アメリカ側としては、ミクロネシア地域を永久の領土としてアメリカ領に組み込もうと交渉してきた。トシオは独立国家として、政治的な独立を目指し、交渉した。

しかし、その過程で、国家の運営費用の資金、そして軍を持てない極小国として、アメリカに資金援助の依頼と国防の委任を選択した。完全な独立国家というよりも一部をアメリカに任せた形となった。

大洋州の島国は、島ごとに意外と文化風習が大きく違う。そういった異なった考え方を束ねて、アメリカと議論を重ね、政治的な独立を手に入れた苦労は相当なものがあっただろうし、能力・人格ともに優れた人物だったのだろうと推測する。

 

 

伝統文化と国家の発展。酋長と大統領はどっちが偉い?

アメリカの信託統治下では、行政区を自治するために、行政職員や教員が生まれ、彼からは公務員として給与を得るようになった。また、給与を持った彼らは当然消費行動を取るので、物品を輸入したり売ったりするビジネスも出てきた。

ミクロネシア地域では、酋長を中心に収穫物や物品を共有する社会システムが伝統であるが、そこに給与所得と貨幣経済が一気に入ってきた。日本統治時代にも変化は始まっていたが、公務員として現地の人たちが自分自身で職を持ったこと、そしてアメリカの行政援助金が入ってきたことで一気に状況は変わった。

貨幣経済の下では、収入を持たない伝統的酋長は貧しい人ということになってしまう。収穫物を分け与えなくても、島の人が自分で稼ぎ、モノを手に入れるようになった。

 

ポンペイで生活していても、よく感じることだ。「伝統的酋長と州知事や大統領はどっちが偉いのか?」

ポンペイでは、伝統的行事においては、酋長が以前として最高権力であり、スピーチも州知事や大統領よりも先。席も上座だ。

ただ、貨幣経済流入によって、酋長を中心とした伝統的社会システムというのは、ミクロネシアの国々で崩れていっているのだろう。(実際には、異なった社会システムを持つ島もあるみたいだ。)

 

日本のプロ野球でプレイした後、故郷の酋長となったアイザワススムは以下のような言葉を残しているそうだ。

以下部分的に抜粋。

「トラックには、CHOFUNUと呼ぶ謝罪行為が残っている。誰かが他人に怪我を負わせたり命を奪ったりした場合、加害者の家族全員で被害者の家族に謝罪する。土地や高価な財産を差し出したり、加害者家族の子供を養子として被害者家族に送ることもある。両家族の傷を癒し、平和と調和を維持する。敵感情は戦闘に発展する可能性がある。CHOFUNUによって悪循環を断ち、共同体を平和に維持する。

ところが、西欧社会から取り入れられた刑事裁判システムでは、個人の罪を裁き個人に懲罰を与えるだけで、崩れた平和や調和を再構築するシステムを備えていない。懲罰一辺倒なやり方では島社会は歪んでしまう。

私たちが今取り組んでいる国家作りは、民族の歴史始まって以来の行為である。なんでも西欧や先進国の真似をするのではなく、私たち自身が有していた伝統や習慣を大切に、如何に現代に調和させていくかが重要なのです。それなくして、自民族がその存在を主張していく道はない。」

 

今も現在残っている習慣なのかはわからない。

青年海外協力隊として長期間現地に住んでも、この島の文化や風習を完全に理解することはできない。仕事を進める上では、「なぜこんなにも進まないのか」と思うこともある。

相手国の文化や風習を「理解した」と簡単にいうことはできない。それは謙虚ではない。仕事が進まないことに関しても、それは日本と同じようにいくはずがない。

国や社会を築くのはあくまで現地の人々だ。伝統や文化風習は古臭いと思われてしまう場合もあるが、そこにずっと根付いてきたものであるから決して軽視はできない。

 

実はまだ若い国家。自分と同い年。

 ミクロネシア連邦の独立に奮闘したナカヤマトシオであるが、実際にミクロネシア連邦が国として認められた際には、彼はすでに大統領職から退いていた。

1986年にアメリカと「自由連合協定」を結び、アメリカは信託統治を終了し、ミクロネシア連邦は国として独立することになる。「自由連合」とは、ミクロネシア連邦が軍事・防衛に関する一切の権限をアメリカに委ねる一方で、一定の期間の財政援助を受けるという内容だ。お互いがこの関係を解消できる自由を有している。この自由連合協定は更新をしながら、現在まで続いている。

その後、国連の安保理から正式に独立国としての承認を得たのは、1990年のことであった。

奇しくも、私も1990年生まれである。

国家として、ミクロネシア連邦と自分が同い年であるというのは不思議な気持ちになる。

伝統的な風習を未だに感じることができ、豊かな自然の多いポンペイ島で生活しているが、国家として自分と同い歳だと考えたことはなかった。

若い国家、まだまだ貢献できることもあるだろうと思う。のんびりした島の雰囲気で何も進まないこともがっかりしてしまうことも正直あるが、自分と同い年の国家の州政府で働いているのだ。それは整っていないことも、不十分なことも多い。

むしろ日系人たちが、国づくりのために努力したということを感じると、こういった島の州政府で働かせてもらえるというのは、小さいことでも大変光栄なことかもしれない。

環境教育の活動 環境啓発ソングと動画で啓発

 

 

任地のミクロネシア連邦ポンペイ州で作った啓発ソングと動画


”Takarajima” to thank all of nature in Pohnpei

「環境教育隊員」とは

青年海外協力隊の職種の中で「環境教育隊員」というのがある。

学校やコミュニティなどに環境啓蒙をする隊員だ。

環境啓蒙のみならず、ゴミの収集方法改善やリサイクル制度の構築などにも貢献する隊員もいるようだ。

よく、JICA青年海外協力隊関係者は、「ブラウン系」、「グリーン系」と分けたりする。

「ブラウン系」は、廃棄物関連で、ごみの減量や生ゴミコンポストの普及をしたりする。

「グリーン系」は自然保護の啓発、生物多様性の保護に関する活動をしたりする。

 

もちろん、ある程度啓発する内容が決まってないと、働きようがないので、しっかり決めるべきなんだけれども、環境保護っていう大きな枠組みの中では、全てリンクしているのであまり一つのことにこだわり過ぎる必要はないと思う。

例えば、ごみ処理の啓発にしたって、ごみをなんで自然の中に捨てちゃいけないかっていうのは、生物多様性の保護の知識が必要だったりする。

 

自分の活動の場合

配属先のミクロネシア連邦ポンペイ州では環境保護局に配属されている。5代目のボランティアだが、環境啓発をまともに行っているスッタフは他にいない。俺に一人でやってこいという感じだった。こんな感じで以前のボランティアを呼んでいたんだろうか・・・

大洋州では廃棄物の処理に関してJICAのプロジェクトが長いこと行われている。最終処分場も日本の福岡方式によって建てられている。

ということで、廃棄物が主要テーマなので、ゴミに関して教育を行って行くように言われた。

小学校での活動がメインだった。

 

歌と動画を作るきっかけ

ポンペイで生活していると、教会で讃美歌を歌っているのをよく耳にする。

コミュニティの中で小さい頃から練習しているのでみんなとても上手だ。

f:id:ryotaokiguchi:20191126124225j:plain

日本語の歌を歌いたいと言われることもある。

だから、歌で啓発できたら広まるんじゃないかと思った。

 

とはいえ、自分ではできない。たまたま現地に長く住んでいる日本人の方で楽器や歌ができがいて、その人に頼んでアイデアを伝えて作ってもらった。また、他のJICAボランティアにお願いして子供たちと歌を練習してもらうことにした。

 

結果

youtubeに動画をアップして、5日くらいで1000再生を超えた。予想以上に見てもらえて良かった。

歌はポンペイ語→英語→日本語で歌われている。

自分の身の回りの自然に感謝し、環境を守っていきましょうというのがメッセージだ。

しかし、あまり配属先は興味ないようだ。残念・・・

 

 

海の中のゴミ拾いの紹介ムービー(海洋保護、環境保護、環境教育)

 

海の中のゴミ拾い

ポンペイのダイビングショップが企画した、海の中のゴミ拾いに参加した。

環礁の中の海底や、棚に引っかかっているゴミをダイビングやシュノーケルしながら拾っていく活動。

 

f:id:ryotaokiguchi:20191016082001j:plain

 

ムービーでいろんな人に見てもらおうと思った

ポンペイの小学校の6年生のカリキュラムには、「ごみ処理に関する仕事をしている人たちにインタビューをしてみよう」という単元がある。

ちょうどいいなと思って、海の掃除をする人たちのインタビューをまとめた。

 


Reef clean up in Pohnpei 2019

 

 

反応はイマイチ?

見せるといいね、これはとてもいい教材だというけど、それっきり。どう使おうとか、誰に見せようとかそんなことは考えない。

そう、それがいつものこと。

自分から仕事は作らないんだ、ポンペイの人。

 

結構ショックだけど、自分で活用する機会を見つけて、現地の人に見せたいと思います。

 

大洋州でいまだに使われている日本語(ミクロネシア、ポンペイ、戦争、南洋庁)

 

 

 

ポンペイでいまだに日本語が使われている

 

ポンペイ、昔はポナペと言っていたらしい。

南洋庁支部があり、日本統治下だった頃には日本人は1万人以上も住んでいた。

数少ない資料を見て行くと、歯医者もあったし、ケーキ屋もあった、旅館も料亭もあった。

国民小学校もあり、教育勅語も教えていた。もちろん、神社もあった。

 

日本語がそのまま残っているものが結構あるので、まとめて行くと結構面白い。

 

f:id:ryotaokiguchi:20191004072431p:plain

 

どんな日本語があるのか

 

まな板

まな板はまな板。cutting boardと英語でも言っているが、まな板で通じる。

 

しゃもじ

しゃもじはしゃもじ。

 

たわし

そのまま。でも、日本みたいに亀の子束子じゃなくて、中国製の安いたわしばっかり。

やっぱり亀の子束子がいい。強い。

 

さしみ

大洋州の国はみんな、刺身っていうらしい。

 

サンマ

サンマが獲れるかどうか知らないけど、輸入物のサンマをサンマとよんでいた

 

ユウガオ

ウリ科のユウガオ。本当に夕方に花が咲くのだろうか?

日本だとかんぴょうの材料。

 

キュウリ

栄養のないキュウリも、野菜を食べない大洋州では貴重。

 

べんじょ

もうあんまり言わなくなってるらしい。けど、通じる人には通じる便所。

 

カエル

蛙。

 

品評会

なぜ品評会が残っているのか、謎。覚えている人は限られる。

 

カバン

多分、これも一定の年齢以上。

 

デンキ

電気の事。

 

デンシンバシラ

多分、日本人が初めて作ったからそのまま残ったんだろう。

 

ヒコウジョウ

日本でもおじいちゃん世代はまだ使う飛行場。ポンペイでも割と年齢が上の人だけわかると思う。

 

シトウシャ

自動車のこと。これはまだ完全に残っている。車が来てるから危ない!と言いたければ、シトウシャ!といえば子供は避ける。

 

チチバンド

ブラジャーのこと。

 

サルマタ

パンツのこと。

 

 ソウリ

草履から残っている単語。サンダルすべてソウリ

 

カツド

映画のこと。みんなカツドという。

昔、活動写真ということばがあったと思う。まだ白黒のフィルムの時代。

そこから、写真は切り離されて、活動だけ残ったと推測する。

 

 

まだまだ、ある。特に年配の方は親世代が日本語教育を受け、ペラペラに日本語を話す世代だったので、今だに日本語の歌を歌えたりする。もう20年くらい前に来ていたら、きっとペラペラに日本語を話すおじいちゃんおばあちゃんに出会えたかもしれない。

 

 

 

青年海外協力隊の英語力。2年間でどれくらい伸びるのだろうか。(英語、青年海外協力隊)

英語が公用語となっている国に派遣される隊員はどれくらい英語ができるようになるのだろうか?

もちろん、英語が公用語といっても母語は現地語である場合がほとんどだと思う。

また、個人の活動内容や、元々の英語力によってかなり差があるために一概に言えない。

今現在、1年と3ヶ月が経とうとしてるので、どれくらい英語が伸びたのか、そして今後どう伸ばしていくのか記録する。

 

 

参加前のレベル(ベースライン)

参加前には、TOEICで860点だった。リスニングの方が少し高かったはず。

実際、860点取っても、以下のような感じ。

 

・スピーキング

旅行で色々質問と受け答えができる程度。すごく簡単な議論はできる。

 

・リスニング

TOEIC試験ならいけるけど、ネイティブの速さは無理。難しい内容もわからない。

 

・リーディング

新聞とかは無理。洋書も挫折多数。

 

・ライティング

すごく苦手。というかほとんど経験がない。

 

訓練所、70日間

青年海外協力隊は70日間の語学訓練がある。

外国語の時間が一番長くて、みっちり勉強する。

正直、中途半端なレベルほど伸びないと思う。

TOEICある程度取れていて、基礎はある。だから勉強してもしても上がった気がしない。

でも、先生がオーストラリア人で、自分にとっては初めてネイティブと長時間話した経験だった。発音がまずい箇所とか教えてくれたのを覚えている。

70日間たっても、長いスピーチができるようになったとか、何か読解力が上がったとか、あまりそういった成果は感じなかった。

 

強いていうなら、これから英語を使って活動しないといけないんだという実感が湧いたくらい。

 

発音は、そもそも音の出し方から違ったんだと思う。フォニックスをやるのがオススメ。

 

CDBフォニックス<発音>トレーニングBOOK (アスカカルチャー)

CDBフォニックス<発音>トレーニングBOOK (アスカカルチャー)

 

 

 

 

現在のレベル(1年3ヶ月)

半分を折り返した時点でどうなのか、4技能で。

 

・スピーキング

大抵伝えたいことは喋ることができると思う。

電話は相変わらず嫌だ。

 難解なことでも、簡単に言い換えたり、自分の言葉を使ったりしながら、意思疎通ができる。

環境隊員として、中学生くらいに英語で環境問題の授業やってるので、特に原稿等用意しなくても授業できる。

ネイティブを前にすると、まだビビる。

 

・リスニング

英語の字幕があれば映画もだいたいわかる。

字幕なしで見れるのは、ディズニー映画くらい。

ネイティブでめっちゃ早いと、まだビビる。

オフィスにアメリカ人のおばさんがいるけど、その人の言ってることはかなりわかる。

 

・リーディング

2週間に一度発行される新聞をあまり辞書引かずに流し読みできる。

(しっかり理解しようとすると辞書必要)

英語サイトのネット記事を英語で読める。あまりストレスを感じなくなった。

仕事で使う資料作成のために、英語でネットサーフィンをする。あまりストレスを感じない。

単語にはまだ不安があり、わからない単語が多い文章だと挫折しがち。

 

・ライティング

活動報告書を書いてみたりしてるが、文法間違い、わかりにくかったりする箇所多数。

メールは一応使っている。が、話し言葉になりがち。

ビジネスで使う能力としては、まだまだ足りない。

ビジネスで使うような、かっこいい英語がかけない。

 

という感じで、少し伸びたなぁと感じることもある。

一番は、人や場面になれたことかもしれない。

特にライティングが弱いなぁと感じる。

リスニングも、ネイティブと話すといまだに何言ってるかさっぱりわからない。

 

伸びる要因

活動では、カウンターパートがいない。

一緒に活動してくれる人はいなかった。

職場で英語を使う機会が多いわけではないと思う。

 

環境教育隊員なので、一人で学校を数カ所回って、環境授業を展開している。

校長先生や、クラスの先生に内容を説明したり、実際に生徒に授業をしたりと、話さないといけない機会がある程度あった。

また、授業を作り込むに当たって、英語で資料を読んだり、理科用語をどうわかりやすく説明できるか考えながら、作業をした。そう言ったときに、英語文章を読む機会が多かった。

海賊版の映画が3ドルくらい売ってるので、映画をよくみた。生きた英語は勉強になる。

 

そもそも、現地語で活動している隊員もいるかもしれないが、ここミクロネシアポンペイの場合は、6年生くらいになるとほとんど英語で授業しているので、まぁほぼ英語でいける。

 

思ったよりも伸びない要因

 

やっぱり簡単に伸びないなと思うこともしばしば

 

・そもそも自分で勉強しなかったら絶対に伸びない

自分で勉強しなかったら、喋るレベルはずっと一緒。単語を増やしてみたり、新しい言い回しを使ってみたり、発音を直してみたりしない限りは、ずっとレベルは変わらないと思ったほうがいい。

 

ということで、結局慣れてきてなんとか職場でもコミュニケーション取れてしまうので、自分の勉強が足りていない。その一点。

 

だから、早い英語は聞けないし、難しい英文は読めないまんま。

 

もっと伸ばすには?

 

結局地道に勉強するしかないんだと思う。

 

2つ、絶対効果があるんじゃないかと思ってることがある。

 

①音読しまくって、口に馴染んだフレーズを会話で使うこと

日本から一冊持ってきていた。なんでもいいと思うけど、やっぱり音読は大事だ。脳みそも口もなれないと。実際に会話で使えたらそのまま定着する。

 

CD3枚付 英語で話す力。141のサンプル・スピーチで鍛える!

CD3枚付 英語で話す力。141のサンプル・スピーチで鍛える!

 

 

 

②とにかく量をこなすこと

聞くこと、読むこと、量をこなすと慣れてくることがわかった。

英語の記事もあまりストレス感じずに読もうとすることができるのは、量をこなしたから。映画見まくって、英語読みまくるしかない。

 

話題になったけど、国際協力に興味がある人なら、やっぱりこれを原書で!

今読んでいる。ビルゲイツのオススメの本!

そんなに難しい英語じゃない。

 

Factfulness: Ten Reasons We're Wrong About The World - And Why Things Are Better Than You Think (English Edition)

Factfulness: Ten Reasons We're Wrong About The World - And Why Things Are Better Than You Think (English Edition)

 

 

 日本語も

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

 

 

 

 

あー、でもライティングは本当難しい。どうしたらいいのかあまりわかっていない。

一応TOEFL のテキストでお手本の文章を練習中。

 

新版TOEFL TEST対策iBTライティング

新版TOEFL TEST対策iBTライティング

 

 

 

 

また、2年終わったらどうなってるか、頑張って勉強してみる。