人生日誌inポンペイ(現在)

開発業界で専門家を目指します。

ミクロネシア地域の国の成り立ちと日系人たち。(ミクロネシア、チューク、トラック)

 

 

ミクロネシア連邦日系人

ミクロネシア地域は、グアムやサイパンを含む北マリアナ諸島パラオ共和国ミクロネシア連邦マーシャル諸島共和国のことを指す。

歴史的は日本が統治しており、今も全地域で2割以上が日系人だという。

けれどもそんなことは、任地のポンペイにきてから初めて知った。これらの国々では日系の大統領も誕生してきた。歴史を知らないことが恥ずかしい。

 

歴史を見ていくと、大航海時代に西欧人たちが島々にやってきて、スペインやドイツに支配され、第一次世界大戦が始まると日本が国連の信託統治という形で、これらの島々を統治した。

その時代がきっかけで、当該地域に日本の文化や血筋が広がった。

任地のポンペイでも、南洋庁支部が置かれ、1万人弱の日本人がいた。当時は旅館や料亭、歯医者、お菓子屋さん、色々とあったらしい。今でも建物の一部が使われていたり、多くの日本語が残っている。戦車や銃、防空壕などもジャングルの中で眠っている。

その中で、チューク州(統治中はトラックと呼んでいた)の2人に焦点をあてた書籍を読むことができた。

特に印象的であった内容や感じたことを記録しておきたい。

 

南の島の日本人―もうひとつの戦後史

南の島の日本人―もうひとつの戦後史

 

 

 

アイザワススム

彼は、なんと日本のプロ野球でピッチャーとして活躍した経験を持つ。

南洋貿易会社に勤める日本人の父と、トラック諸島の水曜島の伝統的酋長の娘との間に次男として生まれた。

小さい頃から体が頑丈でスポーツ万能だったらしい。

当時の中等学校へ進学するには、日本へいかなければならず、尋常小学校を卒業した後に、父の故郷である神奈川県藤沢で学校に通ったそうだ。その後、日本で就職をし、草野球を始めた。才能を開花させ、チームは全国軟式大会で準優勝したそうだ。

プロ野球界の目に留まったススムは、昭和25年に毎日オリオンズに入団する。チーム名が変わったり移籍もしたようだが、1軍での登板もあったようだ。32年に引退している。

その後、トラックの水曜島へ帰ろうとする。敗戦による強制引き上げで父は日本に帰国したが、母や姉はトラックに残ったままだった。しかし、当時の日本は渡航自由化されておらず、アメリカの信託統治下にあったミクロネシア地域に帰るということはハードルが高かったようだ。それでも、トラック人の母との親子関係を証明する書類や、無犯罪証明書などを用意し、アメリカ大使館や外務省の許可を得て、ようやく戻ったようだ。

今から70年前、敗戦後の渡航手続きというのは想像がつかない。ミクロネシアは当時国ではない。日本人としてはアメリカ信託領に入れないし、チューク人と血縁関係にあるという証明も大変だったんだろう。

 

チューク州(トラック)では伝統的に母系社会によって、伝統的酋長が継承されていく。酋長の娘を母にもつススムは、日本国籍を破棄してアメリカの信託統治領民としての市民権を得て、水曜島酋長となる。

市民権を得てからは、ビジネス活動にも活発であり、商店経営や漁業関連、ヤマハ発動機代理店経営で活躍したそうだ。

ビジネス活動と、人々の暮らしの相談事に乗ったり困った人を助ける伝統的酋長の役割をこなしていく。

 

*南洋貿易株式会社とは

明治維新の際に南洋進出を果たし。コプラ(乾燥ココナッツの身)などの輸出入などを行なっていた会社。現在も島嶼国の輸出入において定期便をもち、重要な役割を果たしている。

*水曜島とは

トラック環礁(現チューク環礁)の中の島のひとつ。トル島と呼ばれる。日本統治時代には、夏島、春島、などと日本名で島に名前をつけていた。

*酋長とは

太平洋諸島地域のミクロネシアポリネシアによく見られる伝統性に基づいた世襲的な地域社会の長を指すらしい。小さな島社会の中で、収穫物を公平に分配したり、揉め事を解決する社会の指導者とされている。

 

ナカヤマトシオ

ミクロネシア連邦の初代大統領。

ただし、正式な国家としての大統領とは言えない。

ミクロネシア地域は日本の敗戦後、当然アメリカの政治の仕組みが入って来る。上院と下院の二院制となっており、トシオは1979年に上院議長として、信託統治下にある自治区の大統領となり、憲法制定に携わる。4つの州(ポンペイ、チューク、ヤップ、コスラエ )をまとめた自治区である。しかしながら、国として認められるにはアメリカが信託統治権を返上し、独立を宣言、国連から認められれなくてはならない。

結局、国連安保理ミクロネシア連邦信託統治終了が認められたのは1990年12月である。憲法では4年の任期を2期勤めることが最長とされており、トシオは、独立に際して初代大統領であるが、国際社会から見ると初代大統領ではない。

 

そんなトシオは南洋貿易社員の父と、トラック環礁外の離島環礁の酋長家系の娘である母の下に三男として生まれた。

終戦後、父の正実は島で暮らすつもりでアメリカ軍に在留許可を申請したが、叶わずに、強制引き揚げとなった。トシオは母や兄弟たちとトラックに残った。父を探しに日本に行きたいという想いを持っていたそうだ。しかし、この時住んでいた母親の故郷である離島のウルル島には学校がない。学校にいって勉強ができれば日本にいけるかもしれないと考えていたトシオは、春島でアメリカによる学校教育が始まると聞いて、豚を1匹抱えて春島の親戚を訪ね、学校に通い始める。登録制の学校であり、トシオは無登録であったが教室の外から授業を聞くことを許可された。ここからトシオは猛勉強、アメリカ人教師は教室内に席を持たせ、補助教員の役割を行うようになった。教員を経て、政府職員として引き抜かれた。

アメリカ政府が用意したハワイ大学への奨学金にも合格し、大学でも学んだ。自国の国家の建設を意識し、政治家になろうと信念を確固たるものにしたそうだ。トシオのパスポートには「信託統治領(Trust Territory of the Pacific Islands)」とあり、国家に属していない。国家としてミクロネシアは独立しなければならないと感じたのだろう。

信託統治行政の下、チュークにも地区議会が設置され、選挙によって議員が選出されることになった。27歳で初当選、議員となる。

アメリカはミクロネシア地域を、マリアナ、ヤップ、パラオ、トラック、ポナペ、マーシャルの6地区に分けて統治していた。1965年にこの地域を統括する全領域の代表の上院・下院からなる二院制の議会を設置し、トシオは上院議員として当選し、上院議長となった。そうして、国家としてのミクロネシア独立のために奮闘していく。

 

来日も果たし、父親を探すことにも成功した。父親は歓迎してくれたものの、実は父親は日本で再婚し、トシオと交わしたトラックに戻るという約束は消えかけていた。しかし、日本で再婚した妻が病死した後、トシオや子供達のもとへ戻り、トラックで孫たちに囲まれながら余生を過ごした。

トシオの父正実は結局トラックに戻ったわけだが、戦後の引き揚げによって引き離されたままになった家族は相当数がいただろう。子供が父親を日本に探しにいっても見つからない場合が多いだろうし、すでに再婚してしまい、子供に合わせる顔がないというケースも多かったようだ。 

 

国づくりの過程

ミクロネシア自治政府上院議長、実質の大統領となったナカヤマトシオは6地域に分けられた、全地域の連邦国家としての独立を考えていたようだ。

現在は、ポナペ(現ポンペイ)、トラック(現チューク)、ヤップ、コスラエ の4州からなるミクロネシア連邦だが、トシオは、マリアナ地域、マーシャルやパラオ全てをまとめて独立連邦国家としての考えを持っていた。

マリアナ地域はグアムやサイパンを含め、アメリカ領に、マーシャルとパラオはそれぞれ独立した。

トシオの構想では、どういった国家を理想としていたのだろうか。広い海域をもつ島々をつないだ連邦国家の建国理念はどういったものがあったのであろうか。

個人的には、この構想の狙いがとても気になる。マーシャルやパラオにはどんな思惑があったのか。マリアナ地域にはどんな考え方があったのだろうか。

 

ミクロネシア連邦として独立する際の問題が、アメリカとの交渉だ。

アメリカ側としては、ミクロネシア地域を永久の領土としてアメリカ領に組み込もうと交渉してきた。トシオは独立国家として、政治的な独立を目指し、交渉した。

しかし、その過程で、国家の運営費用の資金、そして軍を持てない極小国として、アメリカに資金援助の依頼と国防の委任を選択した。完全な独立国家というよりも一部をアメリカに任せた形となった。

大洋州の島国は、島ごとに意外と文化風習が大きく違う。そういった異なった考え方を束ねて、アメリカと議論を重ね、政治的な独立を手に入れた苦労は相当なものがあっただろうし、能力・人格ともに優れた人物だったのだろうと推測する。

 

 

伝統文化と国家の発展。酋長と大統領はどっちが偉い?

アメリカの信託統治下では、行政区を自治するために、行政職員や教員が生まれ、彼からは公務員として給与を得るようになった。また、給与を持った彼らは当然消費行動を取るので、物品を輸入したり売ったりするビジネスも出てきた。

ミクロネシア地域では、酋長を中心に収穫物や物品を共有する社会システムが伝統であるが、そこに給与所得と貨幣経済が一気に入ってきた。日本統治時代にも変化は始まっていたが、公務員として現地の人たちが自分自身で職を持ったこと、そしてアメリカの行政援助金が入ってきたことで一気に状況は変わった。

貨幣経済の下では、収入を持たない伝統的酋長は貧しい人ということになってしまう。収穫物を分け与えなくても、島の人が自分で稼ぎ、モノを手に入れるようになった。

 

ポンペイで生活していても、よく感じることだ。「伝統的酋長と州知事や大統領はどっちが偉いのか?」

ポンペイでは、伝統的行事においては、酋長が以前として最高権力であり、スピーチも州知事や大統領よりも先。席も上座だ。

ただ、貨幣経済流入によって、酋長を中心とした伝統的社会システムというのは、ミクロネシアの国々で崩れていっているのだろう。(実際には、異なった社会システムを持つ島もあるみたいだ。)

 

日本のプロ野球でプレイした後、故郷の酋長となったアイザワススムは以下のような言葉を残しているそうだ。

以下部分的に抜粋。

「トラックには、CHOFUNUと呼ぶ謝罪行為が残っている。誰かが他人に怪我を負わせたり命を奪ったりした場合、加害者の家族全員で被害者の家族に謝罪する。土地や高価な財産を差し出したり、加害者家族の子供を養子として被害者家族に送ることもある。両家族の傷を癒し、平和と調和を維持する。敵感情は戦闘に発展する可能性がある。CHOFUNUによって悪循環を断ち、共同体を平和に維持する。

ところが、西欧社会から取り入れられた刑事裁判システムでは、個人の罪を裁き個人に懲罰を与えるだけで、崩れた平和や調和を再構築するシステムを備えていない。懲罰一辺倒なやり方では島社会は歪んでしまう。

私たちが今取り組んでいる国家作りは、民族の歴史始まって以来の行為である。なんでも西欧や先進国の真似をするのではなく、私たち自身が有していた伝統や習慣を大切に、如何に現代に調和させていくかが重要なのです。それなくして、自民族がその存在を主張していく道はない。」

 

今も現在残っている習慣なのかはわからない。

青年海外協力隊として長期間現地に住んでも、この島の文化や風習を完全に理解することはできない。仕事を進める上では、「なぜこんなにも進まないのか」と思うこともある。

相手国の文化や風習を「理解した」と簡単にいうことはできない。それは謙虚ではない。仕事が進まないことに関しても、それは日本と同じようにいくはずがない。

国や社会を築くのはあくまで現地の人々だ。伝統や文化風習は古臭いと思われてしまう場合もあるが、そこにずっと根付いてきたものであるから決して軽視はできない。

 

実はまだ若い国家。自分と同い年。

 ミクロネシア連邦の独立に奮闘したナカヤマトシオであるが、実際にミクロネシア連邦が国として認められた際には、彼はすでに大統領職から退いていた。

1986年にアメリカと「自由連合協定」を結び、アメリカは信託統治を終了し、ミクロネシア連邦は国として独立することになる。「自由連合」とは、ミクロネシア連邦が軍事・防衛に関する一切の権限をアメリカに委ねる一方で、一定の期間の財政援助を受けるという内容だ。お互いがこの関係を解消できる自由を有している。この自由連合協定は更新をしながら、現在まで続いている。

その後、国連の安保理から正式に独立国としての承認を得たのは、1990年のことであった。

奇しくも、私も1990年生まれである。

国家として、ミクロネシア連邦と自分が同い年であるというのは不思議な気持ちになる。

伝統的な風習を未だに感じることができ、豊かな自然の多いポンペイ島で生活しているが、国家として自分と同い歳だと考えたことはなかった。

若い国家、まだまだ貢献できることもあるだろうと思う。のんびりした島の雰囲気で何も進まないこともがっかりしてしまうことも正直あるが、自分と同い年の国家の州政府で働いているのだ。それは整っていないことも、不十分なことも多い。

むしろ日系人たちが、国づくりのために努力したということを感じると、こういった島の州政府で働かせてもらえるというのは、小さいことでも大変光栄なことかもしれない。